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小説「狼たちの夜」後編

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「やれ」
 将校の命令に、ヘルメットに濃い緑の下士官軍服姿の兵士たちが、ポーカーをしていた四人のテーブル客に近付き機関銃を突きつけた。
 そして怯える客たちから次々と身分証明書を取り上げると、いくつか質問をした。だが兵士のドイツ語が分からない様子だ。
 将校がコツコツと軍靴を鳴らして兵士たちの間に割り入って来た。
 革の手袋をはめた手で身分証明書を受け取ると、それを見ながらフランス語で仕事や住まい、家族などを尋ねた。その間、兵士たちは男たちの身体検査をしていた。
 テーブル客の尋問が終わると、ドイツ将校たちはカウンター席に眼をやった。
 ドイツがパリを制圧してからというもの、大抵の民間人は、ドイツ兵と視線が合うと眼を伏せるものだ。
 だが、豊は将校の灰色の瞳を堂々と見返していた。
 将校は、豊を睨み、コツコツと歩み寄って来た。
「アジア人だな。身分証明書を見せてもらおう」
 豊は、ドイツ語で答えた。「それより、こちらの方が立場がはっきりするだろう」そう言って、コートのポケットから畳んだ書類を出して渡した。
「ドイツ語を話すのかね?」将校はドイツ語で言いながら、豊から受け取った書類を開いた。
「日本の通信社の記者でね。ベルリンにもよく取材に行く。それはナチスが私に発効した取材許可証だよ。ほら私の写真も貼ってあるだろう」
 将校は書類と豊の顔を見比べた。にやりと笑った。
「日本人か。それははるばる御苦労様。
 一応規則だ。形だけ調べさせてもらう」
 兵士に顎をしゃくって、豊の身体検査をさせた。
「少佐、この男はピストルを持っています」ひとりの兵士が、豊の上着から見つけたリボルバーを見せた。
「記事を書くのに、ピストルは必要ないだろう」
 将校が尋ねた。豊が答えた。
「護身用だ。日本人がフランスで取材活動をするには何かと物騒でね」
 将校は少し考え込んだ。そして言った。
「明日、東亜通信社に問い合せるとしよう。それまでピストルは預からせてもらう。問題なければ返却するから、基地まで受け取りに来てもらおう」
 豊は、抗議しようかとも思ったがやめた。今夜、ナチスといざこざを起こすのはまずい。
 それより、隣のクレティエンが気になった。先ほど言いかけた合言葉、おそらく彼は連絡員だろう。ケースを調べられたら…。
 将校は、豊に取材許可証を返した。
「さて、お前は?」クレティエンに向いた。
 クレティエンは身分証明書を出した。顔が蒼白だった。
「製薬会社か。本籍はパリなんだな?」
「ああ、そうだ」兵士に身体検査を受けながらクレティエンは答えた。
 将校は足元のアタッシュケースに目をとめた。
「これは?」
「仕事に使っているカバンだ」
「中身は?」
 クレティエンは、答えに詰まった。
 将校が言った。「開けろ」
 豊はごくりと唾を飲んだ。中の指令文を見られたらおしまいだ。
 クレティエンが必死になって言った。
「鍵がない。鍵は家なんだ」
 将校はクレティエンの怯えた眼を見て、よけい怪しんだようだった。冷たく言い放った。「おい。やれ」
 命じられた兵士が、しゃがみ込むと、機関銃を逆さに持ち替え、台座の角でケースの蝶番(ちょうつがい)を激しく打ち始めた。頑丈な蝶番だったが、とうとう金具は千切れてしまった。。
 クレティエンが問いかけるように豊と眼を合わせた。豊は視線を反らせた。
 兵士が壊れた蝶番に、ナイフを差し込み、力任せにこじ開けた。
 アタッシュケースは、ぱっくりと開いた――。
(あっ!)豊は驚いた。クレティエンも驚いた。
 ケースの中は空だった。
「何も入っていないじゃないか」将校が言った。
 クレティエンは、ぽかんと口を開けたが、すぐに我に返った。
「そうだ。きょうは何も入れていない」
 将校は、しばしクレティエンを見つめていたが、「フン」と鼻を鳴らした。
 その後、将校たちはピエールやセリーヌを尋問したが、結局、何も問題はなく立ち去っていった。

 ポーカーをしていた男たちは、緊張から解放されて、もうそれ以上飲む気にもなれなかったのだろう。帰っていった。
 クレティエンは、豊と眼を合わさずに、言った。
「私は帰る。長居をしすぎた」
 壊れたアタッシュケースを抱えて、ソフト帽のつばを掴んで目深に被ると、逃げるように店から出て行った。
 豊はそれを見送りながら考えた。クレティエンは、鍵を持っていないからケースの中身は知らなかった。だが、受けた命令から、それが何らかの命令文や機密情報が入っていると思っていたはずだ。
 ところがケースは空だった。それを見たクレティエンは、混乱したに違いない。ただ、少なくとも、自分の任務があまり重要ではなかったという事は悟っただろう。だから、一刻も早くこの場から逃げ出したくなったのだ。
 豊もまた混乱していた。鍵と共に受け取ったジョルジュからの指令は「十月九日夜にルゴー通りのバー、ジョゼフィーヌで連絡員と会い、箱を受け取れ。箱はこの鍵で開く。その箱に次の指令が入っている」というものだ。だが『七月の狼』の連絡員であるクレティエンが持っていたケースは空だった。
 いま「ジョゼフィーヌ」のただひとりの客となった豊は、カウンター席で考えていた。
 ラジオはもう放送時間が終わり、雑音が流れるばかりだ。ピエールがスイッチを切った。
「コニャックをダブルで」豊はピエールに告げて、三フランを置いた。それを受けたピエールは、豊のグラスにコニャックを注いだ。指令は十月九日での接触だ。十二時までは待ってみよう。
 時間がゆったりと過ぎていく。
 ピエールが店の奥の厨房に消えた。セリーヌが、ルブローションチーズを小皿に盛って、豊に差し出した。フランスではよく好まれるチーズだ。
「店のおごりよ」セリーヌは微笑んだ。
「ありがとう。コニャックをもう一杯頼むよ」
 フォークで、チーズを口に入れた。爽やかな酸味と柔らかく豊かな味わいがする。
 セリーヌがカウンター越しに身を乗り出して、小さな早口で言った。「義兄さんと必要以上に親しくならない方がいいわ」
 豊は驚いた。「どうしてだい」
「何か、私にも隠していることがあるみたいなの」セリーヌはそれだけ言うと、またグラス磨きを始めた。
 ピエールが戻って来た。 
 やがて十二時が訪れた。あれ以降、新たな客はない。おそらく今夜の接触は何かの手違いで中止になったのだろう。
 豊は言った。「さて、そろそろ私も帰るかな」
 ピエールが壁の時計を見上げた。
「セキさん。コニャックもいいが、赤ワインは飲まないんですかい?」
 豊ははっとピエールを見た。問い返した。
「ああ、普段は飲むが、ピエール、あんたなら赤ワインに一番合う料理は何だと思う?」
「あたしは鴨のテリーヌですな。あなたはどう思います?」
 豊は少し詰まりながら答えた。
「…私は子牛の生クリーム煮だと思うね」
 ピエールは手で顎をさすりながら、にやりと笑った。
「これで確認できた。客がいなくなるのを待っていたんだ。あんた宛の箱を持っているよ」
 豊は驚いた。ピエールも『七月の狼』のメンバーだったのだ。
 ピエールは酒棚にギッシリ詰まった酒のボトルを取り出し始めた。やがて裏の壁が現れた。そこに、はめ込みの金庫があり、ピエールはつまみを右に、左にと回して金庫を開けた。その中に、ステンレスの小さなケースが入っていた。それを出すと、カウンターの上に置いた。
「組織から預かっていた箱だ」
 豊は箱の鍵穴を探した。ステンレスの箱なので、結構重い。
 見つけた鍵穴に、持っていた鍵を差した。鍵はピタリと合った。軽くひねると、箱のフタが開いた。
 中には小さな紙切れがあった。
 書いてあるのは、数字だけ。どうやら電話番号のようだ。
 暗記すると、懐中からライターを出して、その紙を燃やした。
 紙切れが灰になると、顔を上げて、ピエールを見た。
「電話はあるかね?」
 ピエールは、顎で厨房を指した。
「あの奥だよ」
「すまない。ちょっと電話を借りるよ」
 豊は回り込んでカウンターの中に入ると、ピエールが指した厨房に入っていった。
 厨房は狭く薄暗かった。天井から下がる電灯に頭が当たった。
 電話はレンガの壁に取り付けられていた。受話器をはずすと、紙に書かれた番号通りに、順にダイヤルを回していった。
 受話器に耳を当てると呼び出し音が聞こえた。
 そして相手が出た。
「誰だ?」
「ユタカ・セキだ」
「私はジョルジュだ」
 豊は、ジョルジュの下で働いてきたが、これまで会ったことがない。声を聞くのも初めてだ。
「ここにかけてきたということは、箱に辿り着いたとうことだな。
 ユタカ、よく聞くんだ。
 箱は二つある。二つのルートで流した。
 一つは間違いなく信頼の置ける同志に。だが、その箱には何も入っていない。われわれの組織のネットワークが正しく機能しているかチェックするために流したものだ。
 もう一つは身元の割れているナチスの潜入スパイに渡した。この男はスパイだと分かっているが、いまは泳がせている。その仲間を知りたいからだ。そこから誰に箱が渡るか知りたかった。だがこれで分かった。
 ユタカ、この箱を君に渡した男はナチスのスパイだ。ただちに殺せ。君の身も危険だ」
 電話が切れた。
 これで合点がいく。クレティエンは空箱ルートの末端だったのだ。
 そしてピエールはナチスのスパイだった。
 だが、豊は凍り付いていた。拳銃は、ドイツ兵たちに没収されてしまった。どうする。改めて出直してくるか。
 人の気配を感じて豊は振り向いた。
 眼を見張った。ピエールが猟銃を構えて立っていた。銃口を豊に向けている。
 揺れる灯の下で、ピエールの顔が浮かんだり消えたりしている。
「日本の通信社記者とは格好の隠れみのだな。
 軍の機密がたびたびレジスタンスに漏れるのが不思議だったんだ。謎が解けたよ」ピエールが静かに言った。
 豊は、もうだめだと思った。ピエールが引き金を引けば、自分は死ぬ。拳銃さえあれば。
 豊は言った。「祖国フランスを裏切って、ナチスの犬になって恥ずかしくないのか?あんたには恥というものがないのか」
 ピエールがあざ笑った。「戦争はドイツの勝利だ。もうフランスもじきに地図から消えるだろう。
 それを言うなら、あんたこそ、日本人のくせにフランスのレジスタンスに身を置いて恥ずかしくないのか?」
 豊は言い返した。「日本は祖国だ。だが間違いを犯した。戦争を始めるべきではなかった。犯した間違いを早く正すために、おれは働いている。そして、おれにはフランス人の血が流れている。フランスは第二の祖国だ」
「ふん。あんたはおれを犬と言ったが、おれに言わせれば、あんたも犬だ。違うのは、おれは生き延びる犬だが、あんたは今夜死ぬ犬だということだ」ピエールは猟銃の撃鉄を起こした。
 豊はどうすることもできなかった。
 不思議と日本の景色が浮かんだ。満開の桜を見上げながら通った大学…、郷里の新潟でいつも見ていた日本海に沈む夕陽…。豊は眼を閉じた。

 パーン!

 銃声が響いた。豊はビクンと身震いした。痛みは感じなかった。
 眼を恐る恐る開けた。
 ピエールが「…なぜだ?」と呟きながら、ドサッと倒れた。
 その向こうに、セリーヌが立っていた。両手で拳銃を構えている。引き金は引き絞られていた。銃口からかすかに白煙が立ち上っている。ピエールは、背中から心臓を打ち抜かれていた。
 相変わらず揺れる灯りは、セリーヌの顔に動く陰影を形作っていた。
「セリーヌ…」豊が思わず呟いた。
 セリーヌは無表情でピエールの死体を見下ろしていた。
「ずっと前から怪しいと思っていた。義兄さんはナチスに協力しているんじゃないかと。
 今夜、はっきりしたわ」
「セリーヌ、ありがとう。君のおかげでおれは死なずに済んだ」
 豊は言った。
「…あなたが殺されそうだから、思わず撃ったけど、私、これからどうしたらいいのかしら」
セリーヌは、困惑した視線を豊に向けた。
「家族はいるのか」
「いいえ。この義兄さんだけよ」
「大丈夫だ。組織が何とかする。ちょっと待ってくれ」
 豊は、再びジョルジュに電話をかけた。。
「ユタカだ…」事の顛末をジョルジュに説明した。
「分かった。彼女には隠れ家を用意するから、朝すぐにミネット通り十八番のリディアーヌという女性を訪ねるように伝えてくれ」
 豊はそれを暗記した。セリーヌを振り返り、「君は大丈夫だ。『七月の狼』が身の安全を保証してくれる」といって、ジョルジュの言葉を伝えた。
 セリーヌは言った。
「あなたはどうするの?」
「また戦うよ。フランスとそして日本を救うために。それがおれの大義だから」豊は答えた。

(了)

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